常識と多様性
- 藤岡 美保
- 2019年9月2日
- 読了時間: 3分
「不登校新聞」というのをご存知でしょうか。
9月1日は子どもたちの自殺が突出する日というのは以前から言われていました。学校へ行かなくてはならない、でも行けないという思いが自死に結び付いてしまう。
そんな中で、【「不登校は人生の〃詰み〃ではない」不登校新聞編集長が伝えたいこと】という記事があります。
一度目を通して頂けるとありがたいです。
一昨日、8月31日から私の周りでもこの話題をラインやメールで話しています。明日のシャベルよつかいでも、話題になるはずです。
亡くなってしまったお子さんには親がいたかもしれません。少なくとも周りに大人はいたはず。その周りの人達の後悔は計り知れない気がします。
私はどちらかというと親や大人寄りになっていると思いますが、もし親子関係を考えたいと思っている人がいたら、何かを変えるきっかけにして貰えたらと思って、親業やエニアグラムの講座、ワークショップを開いています。(今回の親業講座については、特別ワークショップをご確認ください)
人生は色々ある、学校だけが全てじゃないと、親も子も本当に思えたら。
こうなってくると、(「不登校新聞」からは少し離れますが)学校というものへの「常識」も考えてみる必要があるような気がします。
すると、どうしたって、その先の就職、結婚、そして代々のお墓に入ることなど、普段何気なくやっている「常識」を「当たり前」と思い込んでいる自分を発見します。その「当たり前」を再考してみることが必要な時なんじゃないかと思います。
「当たり前」に潜む「同調圧力」「人からの評価」にどれだけ縛れているのか、苦しい、辛いと声を上げる子どもや年齢の高い人の想いを汲み取らなければ。
出来る範囲で、出来ることを考えていきたい、今年の9月はそんなことを思いながらスタートしました。
実は最近、立て続けに「種」についての映画を観ています。
「SEED」と「たねと私の旅」です。
今、種はF1種、固定種などいろんな問題を含んでいます。それについてはおいおい書くとして、ここで言いたいのは種の「多様性」です。
種の種類がどれくらいあるかはわかりませんが、映画「SEED」の中では前世紀中に野菜の種94%は失われた、そうです。自然災害も一因だし、経済上(こちらの方が問題)ゆえに消えてしまった種。一度消えた種は二度と戻らない。不要な種はあるんだろうか。例えばカボチャの種だって、その性質上、暑さ寒さや乾燥に耐えうるものといろんな「多様性」があることで、私たちが生きて行ける。
種に観る「多様性」は、人でだって言えるんじゃないか。
色んな考え、一つの価値観に縛られないのが、本来の人なんじゃないか。人の中に観る「多様性」を活かすことが、生きて行くってことじゃないのかな、と思う今日この頃です。
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